【星月夜(ほしづくよ)】182

円覚寺での坐禅摂心。午前3時に起床し坐を組む。開け放たれた窓からは冷氣のみ入り、窓と外の境界はおぼつかない。やがて空が白み、景色がぼんやりと見えてくる。山の端(は)と空の淵の境目がゆっくりと形を成して行く。
美しい光景だった。
坐禅を組むときは無心のはずが
素人の僕は
外の景色の美しさと共にいた。

僕は札幌の郊外で育った。
森がすぐ近くにあって
毎晩のように遊びに行ってた。

深夜、よく森の高いところに登って
満点の星空を見上げた。

空の頂点は、星を除いて真っ暗なのに
360度の山と空のつなぎ目だけ
淡く光る。

街の明かりでもない
不思議な光。

はるか遠くの
山と空の隙間に
時を捧げる美しさ。

心の底から感動する景色を見たい。

その願いは遠くに行かずとも
いつも目の前にあった。

美しい景色を見たいのなら
空と大地を味わおう。

山の端の淡き光に浮かぶ天蓋
星月夜の美しさは
何物にも変えがたい。

【沈黙】181

大学生のころ、フラれて落ち込んでたとき、友達がそばにいてくれた。「こういう時は一人じゃないほうがいいから」と言って、あとはただじっとそばにいてくれた。一緒に外の田畑を眺めてた。言葉を交わさないで、ただ一緒にいた。

仲良しの子と電話してたとき
ふと静かになった瞬間があった。
そこからただ黙っていた。
電話なのに、お互いに話さないで
ただ黙って、一緒にいた。

自分の中で
色んな感情が湧いてきたとき
それをジャッジしないで
ただ、今それを感じている自分に
黙って寄り添ってあげた。

頭の中に響く声が止まらなくて
それで疲れてしまったとき
その声に反応せずに
ただ黙って、自分と一緒にいた。


ただ、一緒にいた。


言葉を必要としない
関わり方。

あるがままを受け止める。

沈黙という関わり
沈黙という共鳴
沈黙という受容

時には黙って、一緒にいてあげよう。

沈黙とは
美しいコミュニケーションだ。

【素直な感情】180

毎日を感謝の中で過ごそうと意識し続けて、実際にそうなってきた。例えば、文句を言われたら僕はこう考える。「これは自分が作り出した現実だ。だから自分に責任がある。また、向こうも黙ってることも出来たのに、わざわざ言ってくれて有り難い。その役割を引き受けてくれたことも素晴らしいことだ。感謝です」
そんな思考になることは
我ながら素晴らしいと思う。

けれど
注意もしないといけないと思う。

それ本音?
ってこと。

感謝しなきゃと思ってない?
押さえ込んでない?
自分の感情に蓋をしてない?

聖人や仙人のような人なら
全くの淀みもなく
そう思えるのかもしれない。

でも僕は聖人を
目指してるわけではない。
人間を生きてる。

右の頬を打たれたら
左の頬は差し出せないよ。

文句言われたら
最初に思うのは

「は?こいつうるせーな」

ですよ。

その後にそのことを
受け止める解釈は
学びによって変えられるけど

起こること全てが感謝とか
本当に出来るようになるとしたら
100歳くらいじゃないかな(笑)

それまでは
無理して感謝するくらいなら
自分に素直に
怒ってあげよう。