【あなたは私だ】184

生涯のうちで出逢える人の数には限りがある。人生で関われた人とは、縁があったということだろう。あなたに、出逢うべくして出逢ったんだ。「人は鏡」という言葉がある。
目の前に現れた人は、自分と同じものをもっている。だから、引き寄せあったんだ。

あなたは、私の一部を持っている。

あなたの中に、私がいる。

あなたは、私と同じだ。

あなたは、私だ。

出逢う人、出逢う人に心の中で語りかける。

あなたは、私だ。

あなたを探しているとき
私は、私を探していたんだ。

あなたに出逢ったとき
私は、私に出逢ったんだ。

あなたを受け入れることは、
私を受け入れることなんだ。

私は、私を受け入れる。


けれど
私があなたを
受け入れられないときがある。

あなたは、私だ。

わかるよ。

私が、私を受け入れられないとき
あるよね。

わかるよ。

私は、私だから。

あなたは、私だ。

あなたに出逢うことは
私に出逢うことなんだ。

【ほめあい】183

知り合いの夫婦にこういう会話があった。だんなさんがお家に帰ったら奥さんが部屋をきれいに片付いていた。
だんなさん「○○ちゃんは本当にすごいねー。」
奥さん「だって○○くんのお嫁さんだもん」
だんなさん「僕も見る目があったよ」
こんな感じでどんどん褒めあっていく。まぁ、ただのノロケとも取れるかもしれないけど(笑)僕はこの会話聞いた時、すごいなって思ったんだ。
特に後半の二つのセリフ。
自分を褒めつつ、
相手の価値を上げていく会話なんだ。

あなたはすごい!
から
あたも私もすごい!
の褒め合い。

こんなのを毎日繰り返してたら
日常がどれだけ輝くだろう。

僕もパートナーと常に
こうやって高めあっていこう。

お互いに、自分と相手を同時に
輝かせるコミュニケーション。

そんな素敵な文化を、育んでいこう。

【星月夜(ほしづくよ)】182

円覚寺での坐禅摂心。午前3時に起床し坐を組む。開け放たれた窓からは冷氣のみ入り、窓と外の境界はおぼつかない。やがて空が白み、景色がぼんやりと見えてくる。山の端(は)と空の淵の境目がゆっくりと形を成して行く。
美しい光景だった。
坐禅を組むときは無心のはずが
素人の僕は
外の景色の美しさと共にいた。

僕は札幌の郊外で育った。
森がすぐ近くにあって
毎晩のように遊びに行ってた。

深夜、よく森の高いところに登って
満点の星空を見上げた。

空の頂点は、星を除いて真っ暗なのに
360度の山と空のつなぎ目だけ
淡く光る。

街の明かりでもない
不思議な光。

はるか遠くの
山と空の隙間に
時を捧げる美しさ。

心の底から感動する景色を見たい。

その願いは遠くに行かずとも
いつも目の前にあった。

美しい景色を見たいのなら
空と大地を味わおう。

山の端の淡き光に浮かぶ天蓋
星月夜の美しさは
何物にも変えがたい。

【沈黙】181

大学生のころ、フラれて落ち込んでたとき、友達がそばにいてくれた。「こういう時は一人じゃないほうがいいから」と言って、あとはただじっとそばにいてくれた。一緒に外の田畑を眺めてた。言葉を交わさないで、ただ一緒にいた。

仲良しの子と電話してたとき
ふと静かになった瞬間があった。
そこからただ黙っていた。
電話なのに、お互いに話さないで
ただ黙って、一緒にいた。

自分の中で
色んな感情が湧いてきたとき
それをジャッジしないで
ただ、今それを感じている自分に
黙って寄り添ってあげた。

頭の中に響く声が止まらなくて
それで疲れてしまったとき
その声に反応せずに
ただ黙って、自分と一緒にいた。


ただ、一緒にいた。


言葉を必要としない
関わり方。

あるがままを受け止める。

沈黙という関わり
沈黙という共鳴
沈黙という受容

時には黙って、一緒にいてあげよう。

沈黙とは
美しいコミュニケーションだ。

【素直な感情】180

毎日を感謝の中で過ごそうと意識し続けて、実際にそうなってきた。例えば、文句を言われたら僕はこう考える。「これは自分が作り出した現実だ。だから自分に責任がある。また、向こうも黙ってることも出来たのに、わざわざ言ってくれて有り難い。その役割を引き受けてくれたことも素晴らしいことだ。感謝です」
そんな思考になることは
我ながら素晴らしいと思う。

けれど
注意もしないといけないと思う。

それ本音?
ってこと。

感謝しなきゃと思ってない?
押さえ込んでない?
自分の感情に蓋をしてない?

聖人や仙人のような人なら
全くの淀みもなく
そう思えるのかもしれない。

でも僕は聖人を
目指してるわけではない。
人間を生きてる。

右の頬を打たれたら
左の頬は差し出せないよ。

文句言われたら
最初に思うのは

「は?こいつうるせーな」

ですよ。

その後にそのことを
受け止める解釈は
学びによって変えられるけど

起こること全てが感謝とか
本当に出来るようになるとしたら
100歳くらいじゃないかな(笑)

それまでは
無理して感謝するくらいなら
自分に素直に
怒ってあげよう。

【感謝と感動】179

僕は30歳になるときに、30代の人生のテーマを決めた。それが「感謝と感動」だった。日常の中でいかにそれを感じられるかを意識して過ごしてきた。そしたらいつしか、無意識のうちに感じられるようになっていた。
朝起きて太陽が昇ることに感謝をし
空氣があることに感動する。
ボールペンの持ちやすさの工夫に感謝し
自動販売機の仕掛けに感動する。

地下鉄の通路を歩いていてふと思った。

このタイル、誰が作ったんだろう?

昔は土こねて天日干し
そして焼いてレンガ作ってた。
こんな薄いタイルが作れたとき
感動したろうな。

屋根は誰が作ったんだろう?
昔は洞窟だったり
木の下で雨をしのいでた。
木とか葉っぱ集めて
屋根ってものを作ったとき
感謝されたろうな。

壁に使われるコンクリートを
発明したとき
どんな喜びがあったんだろう?

鉄を溶かして
初めて加工出来きたとき
その人の頭の中に
どれほど世界が広がったか。

この色が作られるまで
植物、鉱物、顔料
どれだけの人が試行錯誤してきたか。

明かりを初めて手に入れたとき、
神の所業と喜ばれ
自分も心打たれたのではないだろうか?

すごい。
今ここにあるもがここにあること
その全てに
ストーリーと、想いが詰まっている。

右も左も、前も後ろも、上も下も
周り全てが感謝と感動だらけだ!

30歳になるときに掲げたテーマの中を
今まさに生きていると感じた。

1年では出来ないことも
10年あれば出来るようになる。

10年意識してれば
きっと当たり前になる。

そして感謝と感動は
探せばいくらでも
目の前に溢れてくる。

当たり前の日常の中にこそ
感謝と感動を、味わおう。

【リーダーシップ】178

リーダーシップには広い意味があると思う。
人の前に出て、組織を導くことはもちろん一つの形だ。先日、そうじゃない解釈を聞いた。リーダーがリーダーシップを発揮出来るように裏で環境を整えてあげることも、リーダーシップだね、と。
僕はそこから、組織での役割を演じることはリーダーシップなんだと思った。

組織とは、全員がいい状態で
いるわけではない。
調子の悪い人もいるし
落ち込んでる人もいる。

ある程度大きな組織であれば
一定の割合でいるだろう。

実は、そういう人たちも
リーダーシップを発揮している。

一定の割合でいるのなら
誰かがその役割を
引き受けなければならない。

自分が引き受けることで
他のメンバーが
いい状態でいられるとしたら。

それは裏で発揮している
リーダーシップだ。

人前で立って発揮する
リーダーシップは
誰からもわかりやすい。

だが
裏で発揮するリーダーシップこそ
組織を支えている。

だから
目の前にどんな人が来ても
感謝を込めて接しよう。

あたなのリーダーシップに
ありがとう。

【光と闇】177

「闇はあってもいいの?」その質問に対して僕は『風の谷のナウシカ』のワンシーンが浮かんだ。「生命は光だ‼︎」墓の主の言葉に対して、ナウシカは反論する「ちがう いのちは闇の中のまたたく光だ‼︎」
全てが闇であったなら
何も見えないのと同じように
全てが光であったなら
僕らは光を認知できない。

闇が薄ければ
強い光も目立たない。
闇を遠ざければ
光に氣づかなくなる。

光と闇、プラスとマイナス、陰と陽
全ては表裏一体。

闇があるからこそ
光のまたたきを
感じることができるんだ。

【間違いを信用する】176

「間違いを犯さない者を信用してはならない」ピーター・ドラッカーの言葉で、深く突き刺さった一言。最初読んだとき、どういうことだろう?と思った。間違える人は信用出来ないんではなくて?でも前提が違った。
人は必ず間違いを犯すもの。
もし間違いをしていないなら、
その者は何もやっていない。

盗塁王は盗塁の失敗数も最大
である。という話を
聞いたことがある。

出来る営業マンほど
断られる件数や
始末書の数が多いとも。

この言葉を知ってから
ミスや間違いを犯した人に対して
責めるのではなく
行動した人なのだと
思えるようになった。

何もやらない人よりも
やって失敗をした人こそ
信用しよう。

【感情】175

高校のときの教科書に、障害を持った子どもを引き取って育てたおばあさんの話がのっていた。何をしても反応のない子を、他の人に無駄だと言われながら、一生懸命世話をした。あるとき、全てに無反応だったその子が自分の意思でピアノを弾いていた。それから堰を切ったように、自分として、命を生きだした。
そしてあるとき、
大泣きをしたことがあった。
大声をあげ、
涙を流し、
鼻水やよだれを垂れ流し、
めいいっぱい泣いた。
その姿が「美しい」と書かれていた。

僕はそこに
ちょっと引っかかったのを覚えてる。

なんで「美しい」っていう
表現なんだろう?

そんな光景に出会ったら
本当にそう感じるのだろうか?

高校時代のちょっとした疑問は
大人になって、わかるときが来た。

自分の壁に向き合って
思いきり泣いている人を見た。

僕はその姿を

「美しい」
と感じた。

この美しさは、どこから来るのだろう?

それは「感情」だった。

感情が美しいんだ。

大人になるといつしか
周りに合わせて
人の目を氣にして

自分の感情を抑え込んで
蓋をして生きていく。

美しさを隠して
自分を殺して。

だからこそ
解き放った姿は格別に美しいんだ。


いいんだよ。
自分の中の美しさを
もっと表現して

いいんだよ
自分の中の美しさを
もっと届けて

いいんだよ。
自分の中の美しさに
向き合って


感情は美しい。

あなたの感情は美しい。